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2005年4月22日 (金)

大分の語源

 滑って転んで大分県などと冗談で言いますが、なぜ「大分」が「おおいた」なのか明快に教えてくれるものがありません。というわけで、大分県在住の人間として若干責任を感じて「分」=「いた」の関係を調べてみました。

1.一柱騰宮
 「記紀」などに、「神武天皇」が東征の途中「宇佐」に立ち寄ったときに「菟狭津彦」「菟狭津媛」が「一柱騰宮」(あしひとつあがりのみや)で天皇をもてなす記述があります。
 この「一柱騰宮」について勝井純はその「神武天皇聖蹟考」のなかで
(1)宇佐神宮境内
(2)現在の宇佐市上拝田、騰山(とうのやま)一柱騰宮宮址
(3)現在の安心院町大字妻垣字鑰山の中腹
を挙げています。それなりの伝承は有るとの事ですが、私は次のように考えます。
 「上つ記」では姫島が亦の名「天一津柱」ですから「姫島」に仮泊したと考えられない事もないのですが、これはかなりの少数意見、いや記述の誤りではないかと考えます。実際に原本のコピーで調べたのですが、確かに「壱岐島」と「姫島」が同じ[天一津柱」 になっているので筆写のときの誤りかも知れません。もし誤りでなかったとしても、この宮は「上つ記」以外の書の記述に必ず出てくるのですから、「天一津柱」のような概念的なものではなく、具体的な形でしかも当時の当時の宇佐の近くに多くあった構造物と考えた方が自然です。
 名前を考えてみると、古事記伝(本居宣長)以降構造物主体で考えられていて足(柱)が一つの「騰がり宮」という訳の分からない建物を想像していますが、行為主体に騰がるという動作を伴う建物を想像すれば、「アシヒトツ・アガリノミヤ」ではなくて「アシヒトツアガリ・ノミヤ」と読めます。「ホツマツタエ」の「ヒトアガリヤ」が原型だったのでしょう。
しかし「ホツマツタエ」を翻訳した吾郷さんは「記紀」に引きずられて一柱騰宮の漢字を当ててしまっています。では私が具体的にどのような構造を想像するかというと、高所に建物が有って、そこに登る道は一箇所でしかも展望が利き防御しやすい。特に背後が岸壁であれば天然の要害になる。そのような場所に有る宮となります。
 私が推す候補は、大分県宇佐市院内町龍岩寺の、奥の院礼堂に残る遺構です。平安末期に行基開山と伝えられ、一木彫り伝説の薬師如来、阿弥陀如来、不動明王の三座像が有り、堂の前にかかる丸太橋は「きざはし」と呼ばれ、三体の仏像を刻んだ残り木を荒削りして作られたと伝えられる原始的な階段です。国内では希有な遺構でかっては参詣道として利用されていたとの事です。写真を見れば納得いただけると思いますが、この地方には古くからこのような構造物がかなり有ったのではないかと思います。
kizahasi1    kizahasi2                                                                                              

 

新人物往来社、写真集国東より(龍岩寺礼堂)

地域も菟狭川(うさがわ、現駅館川)の川上に有り記紀の条件によく合っています。

2.階段
 同様の構造物は伊勢神宮外宮の御饌殿に「刻御階(きざみぎょかい)」があり、かなり古い形のようです。
大分の「きざはし」、伊勢の「きざみぎょかい」何か似た発音です。

gyokai1 gyokai2

 

 

                 
東京書籍、伊勢神宮の衣食住より(御饌殿)

方言小辞典(東京堂出版)では「階段」は次のようになっています。

ガギ
 秋田、福島、栃木
ガッキ
 秋田
グキ
 福島
キダハシ
 千葉、群馬、岐阜、福井、徳島
キダ、キザ
 鹿児島
キザン
 屋久島
キザイ
 沖縄

 キザン、キザイは、それぞれ(キザミ→キザニ→キザン)、(キザミ→キザイ)が考えられます。キダ、キザはそのもとの名詞形でしょう。
 現在も使われているギザギザは、古い言葉をそのまま受け継いでいるに違い有りません。では古代はどうだったのでしょう。

ベネッセ全訳古語辞典

キダ
 (段)助数詞(上代語)切り分けた物を数えることば布地の長さの単位。田畑の面積の単     位。段、たん
キザハシ
 (階)名詞 階段
キザム
 (きざむ)動詞 マ行四段活用 細かく切る。

全訳読解古語辞典

キダ
 (段)接尾 上代、切り分かれた物を数える語。布の長さの単位。反、たん 田畑の面積  の単位。段
キザハシ
 (階)名詞「きだはし」「はし」とも云う。
キザミ
 (刻み)名詞 階級、身分、段階

 以上から想像すると、キザ、キダは、切り分かれた物から、切り刻む、幾つにも切り刻んだ物の連続、具体的形としての階段へと進化していったもののようです

3.碩田
 日本書紀の景行天皇条に次の記述があります。
『冬十月に、碩田國に到りたまふ。其の地形廣く大きにして亦麗し。因りて碩田と名く。(碩田、此をば於保岐陀(オホキタ)と云う。)以下略』
 私には大分の地が日本書紀に云うほど広くて良い土地とは思えません。ただ、日本書紀の前後の記述の中で大分と他の地域が違うところは、宇佐や速見にはそれぞれ首長が居て、さらに首長に敵対する勢力が有るのに、大分についてはそのような記述はなく、上記のほめ言葉だけが記されています。
 豊後風土記にも同じ様な記述がありますが、大同小異です。
 一つの想像ですが、景行天皇が西征のときに、菟狭(ウサ)の川上、御木(ミケ)の川上、高羽(タカハ)の川上、緑野の川上、で敵を破り、豊前國の長狭縣(ナガオノアガタ)に行宮を設営される。さらに、速見邑(ハヤミノムラ)の鼠(ネズミ)の石窟(イワヤ)、直入縣(ナホリノアガタ)の禰擬野(ネギノ)で敵を破り、進んで日向國に行宮を設営された。これらの戦の中で、唯一心の安まる國が大分であったに違いありません。
 このような状況の中で、浮かんだ感慨はどんなものであったか、私が当事者であれば、このように言ったでしょう。「我が領土よ、領土の中で本当に領土と言えるところだ。」
 さてここで、領土を分国と置き換えると意味は鮮明になってきます。そして更に、分国を「キダ」と呼んでいたなら。「オホ・キダ・ヨ」=「キダノナカノキダヨ」と感激して叫んだでしょう。
 こう考えないと、「大分」の文字の意味が見えてこないのです。この説話が生まれる前に「キダ」という標識地名がが常用されていて、漢字も使用されていたとすれば、「キダ」の当て字に「分」が使われていても不思議はありません。

4.地名説話
 記紀や風土記の地名説話は珍しい地名などについて言っているのであって、朝廷や派遣された国守が耳慣れない地名の由来を訊ねれば、公式文書にはかなりお追従が入り込むと考えられます。碩田もこのようにして生まれたと思います。そう考えると記紀を編纂した朝廷や中央官僚は、領土をすでに「キダ」と呼んでいなかったのかも知れません。このことは当時の朝廷の由来や出自を探る一つの手がかりになるでしょう。

5.その他の例
 福岡県鞍手郡鞍手町に新北(ニギタ)という地名が有ります。新分とも書いたと云われます。かってこの用法が有ったものと思われます。
 全国各地の地名を探してみると、「木田」「北」「喜多」などはかなりの数になります。「荒木田」(アラキダ)という地名が有ります。「荒」=「新」と考えれば上の「新分」と同じという事になるわけです。このような地名の分布を調べれば上代の事が少しは見えてくるだろうと思っています。
 額田王の歌とされる
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
の「熟田津」(ニギタヅ)「熟田」も「新分」と同じかも知れません。
 「元明」朝の和銅六年(西暦713年)中央官命に基づいて地方各国庁で筆録編術された風土記では、郡郷の名は好字(漢字二字の嘉字)を著ける事が命じられていますが、日本書紀の場合も漢文で表現する必要上そのような作業は行われたと思います。このとき地名は表音記号としての漢字に置き換えられ、以後地名の原義が分からなくなっていったのでしょう。
 それにしても「大分」という地名がよく残っていたものです。
 一つの理由は壬申の乱で活躍した大分君(オホキダノキミ)「恵尺」(エサカ)「稚臣」(ワカミ)が居たからかも知れません。古事記では、大分君の祖は神武天皇の御子「神八井耳命」とされます。歴史的に消すわけにはいかない地名だったのでしょう。
 最後に(おおきだ)→(おおぎた)→(おおいた)は容易に理解出来ると思います。

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